20110911


10年前のこの日に起きたこと。

留学一年目を終えて、一時帰国中だった。

遊びに来ていたアメリカ人のルームメイトと父と、居酒屋でご飯を食べて帰って来たら、2機目が突っ込むところだった。

映画かと思った。



半年前のこの日に起きたこと。

家でぼけーっとしてたら、部屋が、あり得ないくらいゆれた。

テレビをつけたら、町が波にさらわれるところが繰り返し映されていた。

これも映画かと思った。

しばらくずっと、John lennonのイマジンばかり聴いていた。

そして、この歌も聴いていた。10年前も。今年も。



いつも批判ばかりのあの人もこの人も、今日は祈ったかな?

宗教は嫌いだけど、祈ることは好きなんだよね、みんな。

今日だけは、被害者であることも加害者であることもやめて、一緒に祈ります。できれば、明日もあさっても。

こどもについて

カリール・ジブランという詩人がいます。
預言者」という本の中の、こどもについてという詩が好きで、学生の頃から何度も読んでいる。
17歳でテキサス州の台湾系アメリカ人の家にホームステイした時、ホストマザーが教えてくれた。
そして、19の頃、銀色の表紙のSWITCH(雑誌)が、星野道夫特集で出たのだけど、そこにもこの詩が載っていて、留学する時にわざわざアメリカに持って行った。で、今も新品同様の状態で保存してる。
子供だった私も、自分に子供がいてもおかしくない年齢になってしまった。
でも今でもこの詩に感動するし、永遠の子供です。大人の格好をしてるだけです。。。

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あなたがたの子どもたちは
あなたがたのものではない。
彼らはいのちそのものの
あこがれの息子や娘である。

彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない、
彼らはあなたがたと共にあるけれども
あなたがたの所有物ではない。

あなたがたは彼らに愛情を与えうるが、
あなたがたの考えを与えることはできない、
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。

あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
彼らの魂を宿すことはできない、
なぜなら彼らの魂は明日の家に住んでおり、
あなたがたはその家を夢にさえ訪れられないから。

あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが、
彼らに自分のようにならせようとしてはならない。
なぜなら命はうしろへ退くことはなく
いつまでも昨日のところに
うろうろ ぐずぐず してはいないのだ。

あなたがたは弓のようなもの、
その弓からあなたがたの子どもたちは
生きた矢のように射られて、前へ放たれる。
射る者は永遠の道の上に的をみさだめて
力いっぱいあなたがたの身をしなわせ
その矢が速く遠くとび行くように力をつくす。

射る者の手によって
身をしなわせられるのをよろこびなさい。
射る者はとび行く矢を愛するののと同じように
じっとしている弓をも愛しているのだから。



 『ハリール・ジブラーンの詩』
    神谷美恵子・訳(角川文庫)より

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ある友達のために、載せてみた。
何の話をしてたか忘れたけど、この詩を読んでほしいと思った。
私のこと知ってる人と、知らない人すべてに、読んでほしい。

避難所のご飯。

さてさて、ボランティア二日目は、避難所のご飯作りへGo.
車2台に別れて、小学校と、小さな公民館へ向かった。

女性2人と一緒に、小さな公民館でその日の夜に食べるご飯8人分を作ることになった。
メニューも考えるところから!
冷蔵庫のものをうまーく使って、あっさりめのご飯を、とのリクエスト。

まずは、自分たちのご飯を食べてから、夕飯作りをスタート。

なすの揚げ浸しが好きだよね、そうだよね、と、そうめんと共になすを揚げることに決定。

そして、沖縄出身のメンバーが、そうめんチャンプルーを作り、私は、ごぼうのきんぴらを作った。

避難所は、7月いっぱいで閉鎖するので、残り物はどんどん使って良さそうな雰囲気だった。


と言う訳で、どんどんメニューが増えて行き、上の写真のような有様に。

作る人たち。

3人で台所に立つのはおもしろかったなー。

避難しているおじいさんと、途中に少しおしゃべりしたりして、のんびりした一日だった。







実はこの避難所、4月に足湯ボランティアで訪れたことがあった。

管理しているお兄さんは、私のことを覚えていてくれた。

でも、その時に一緒に遊んだ小学生たちは、もう、ここを出てしまっていて会うことはできなかった。

また来るからね、という言葉は嘘ではなかったことを伝えたかったけれど、新しい生活が始まっているのを知れたのは、うれしい。

避難所の家族たちが、初対面なのに昔からの友達のように仲良く暮らしていて、この避難所は本当にいい場所だった、とお兄さんは話してくれた。

何度かボランティアをしてみて、東北の人の気質と言うものに触れることができ、この話を聞いただけで、どんな感じか想像できてしまった。

なんだか、すごく温かいんだな。

静かで、なんでも受け入れてくれる優しい雰囲気がする。



今回は、予定があって、この日の夜に帰ったのだけれど、また来ようと決めた。

自分がそんなにボランティアするような人間だとは思わなかった(笑)

正直なところ、ボランティアって、「いい人」に思われたいときにするものだと思っていた。

自分の価値を上げたいとか、罪悪感を捨て去りたい時にするんだと。(毒舌でごめんなさい)

でも、目の前に泣いている人がいたら、ハンカチ差し出すのが人間なんだと、東北に訪れている人、避難所の人たちを見て思った。

普通のこと。

楽しかったら、それを繰り返すのも、普通のこと。

楽しいから、また行こうと思う。

記録。

個人ボランティアで訪れた場合、写真は撮影しないでくださいと、ボランティアセンターでは指導される。

私は、撮影した方がいいと思ってる。

ちゃんと伝わって、人が来てくれたら、写真もためになるでしょ?

泥だしをした帰り道にバスから携帯で撮った写真。

空き地じゃないけど、でかい空き地みたいに感じる風景。

鉄骨だけになった建物の前で、お坊さんがお経をあげているのを見かけた。

道端に、いろんなお供えが置いてあるのとか、自分の目で見てほしい。

生活が奪われるとは、どういうことなのか、私は真剣に考えてしまった。

毎日この風景を見てる人は、だんだん麻痺してくるんだって。悲しいけれど。